遠藤周作の沈黙で知る「不思議な日本人」と「真の信仰」

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沈黙 遠藤周作

読んですぐ忘れる小説もあるけど、遠藤周作さんの「沈黙」は読後から10年20年経っても内容を憶えていて強い印象が残っている。

印象といっても、悪い印象が強い。

とにかく日本人の特異性と残酷さに辟易したという印象が強い。

沈黙 (新潮文庫)

 

残酷さの例として島原の乱以後に、日本へ渡来したキリスト教の神父を棄教させるために、日本の元キリスト教信者であった奉行のとんでもない拷問がたびたび話しに登場する。

神父本人を拷問するのではなく、とっくにキリスト教を棄教した元信徒を責めて、神父の信仰心を揺さぶるのだ。

 

この拷問や裏切りの話しを読んでいくと、主題である「神は応えないもの」よりも、日本人とは「はっきり言うと醜い民族」だという日本人論みたいに感じてしまった。

年齢を重ねるほど、この奉行やキチジローみたいな奴は、日本社会にはいっぱいいるのに気づく。

そして、自分はキチジローみたいな奴になっているんじゃないだろうかと嫌になる。

「パードレ!」「パードレ!」と自分の非を人にかぶせちゃうような自己中心的な奴。

 

日本人の特異な点として、外国から入ってきてきたものを自分たちに都合のよいものに作り変えてしまうことがある。

作品が描く時代のキリスト教が指す「神」である「デウス」を、当時の日本では「お釈迦さま」と混同していたというような記述が「沈黙」にはある。

これが否定できない。

日本人は他国の料理や言語も日本流に変えるし、仏教でさえ神道の教えみたいなものが混じってるし、とにかく自分たちでは何も生み出さず、他国で流行した文化をパクってきて日本流にアレンジしてしまう。

作品にでてくる「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」というのは、日本人のパクリからのアレンジ癖を最悪に言い換えたものだとおもう。

料理なんかはアレンジしてもそうは問題ないと思うけど、宗教までアレンジしたらそれって別の宗教に変わってることになる。

 

たぶん、この小説をそのまま忠実にマーティン・スコセッシが映画化したなら、海外の人の関心は3つくらいに大別されるとおもう。

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海外の人が見た沈黙の3つの関心

1つは、苦難のときであっても神は応えないもので、棄教したとしてもそれこそが信仰の証であるという、目の前の霧が晴れるような気づきを得る作品の素晴らしさ。

2つめは、この映画の原作の小説が、ほぼ神道と仏教の2大宗教だけのような東洋の島国の日本人によって生み出されたことの驚き。

3つめは、日本人への不気味さ・得体の知れなさだろう。

 

とはいっても日本人の不気味さ・得体の知れなさは、映画では存分に描いて欲しい。

特に拷問の「穴吊り」はいれてほしい。この拷問こそが神父が棄教することになる大きなきっかけだし、拷問と日本人の異質さが神父が真に神の教えを悟ることにつながるからだ。

原作に忠実に作られた映画であれば、日本に住んだことのある海外の人間が観ればその日本人の描かれ方に納得するだろう。

それだけ日本の負の部分が真に描かれている。

 

映画「沈黙」では、日本人の俳優もキャスティングされている。

予告を観た限りではイッセー尾形が絶妙なキャスティングに感じらる。どっからどう見ても日本人のような容姿で、妙なジャパニーズイングリッシュをしゃべり、生真面目に狡猾に棄教させようとする奉行にピッタリだ。

浅野忠信もいい。あとはキチジローの窪塚洋介がどうなるかですね。演技は下手だとはおもわないけど、顔が端正すぎると感じた。

わたしは小説を読んでいる時に頭のなかでは、キチジローは竹中直人と想像していた。体躯、目鼻立ち、そして身なりを汚くすると、どれをとっても竹中直人にピッタリでしょう。でも竹中直人が演じたら「秀吉」になっちゃうかな。。

 

キリストの生誕を祝うのではなく、イルミネーションとプレゼントの慣習だけ抜き取ってクリスマスを実行する「不思議な日本人」と、「神の沈黙」を敬虔なクリスチャンであるマーティン・スコセッシがどう描くか楽しみだ。

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